エリック・サティ (Erik Satie)

1866年 パリ(仏)生 ― 1925年 パリ(仏)没

 【略歴】
 1866年5月17日、フランス・ノルマンジー地方の港町オンフルールに生まれる。本名はエリック・アルフレッド・レスリー・サティ(Eric Alfred Leslie Satie)。父親は船舶の仲介人。
 1872年、母親が病気で亡くなる。8歳頃から音楽の勉強を始める。
 1879年、父親がピアニストの女性と再婚。パリ国立音楽演劇学校に入学。
 1886年、歩兵連隊に入隊。この頃より神秘主義に深い関心を寄せる。
 1887年、除隊後、学校には戻らずモンマルトルの文学酒場『黒猫』に入り浸る。
 1888年、ピアノ曲『3つのジムノペディ』を作曲。
 1889年、パリ万国博で東欧やアジアの音楽に出会い影響を受ける。
 1890年、ペラダンと知り合い、『カトリック薔薇十字会』公認作曲家となる。『3つのグノシェンヌ』を作曲。
 1891年、ドゥビュッシーと知り合う。
 1891年、ペラダンの戯曲『星たちの息子』の音楽を作曲。
 1892年、ペラダンに公開絶縁状を出す。
 1893年、シュザンヌ・ヴァラドンと交際するが半年後に破綻。自宅に「主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教会」を創設し、司祭を自称する。
 1894年、ブーランの元弟子で悪魔主義の作家ジュール・ボワと親交を結ぶ。
 1905年、スコラ・カントルムに入学。ルーセルとダンディに対位法を学ぶ。
 1910年、ラヴェルと知り合う。1913年、ドゥビュッシーを通じてストラヴィンスキーと知り合う。
 1913年、今日ではダダ以前のダダ作品として高く評価されるナンセンス音楽劇『メデューサの罠』を創作。
 1917年、コクトーが台本を、サティが音楽を、ピカソが舞台美術を担当し、ディアギレフのパレエ団が演じる『パラード(Parade)』が、パリのシャトレ座で初公演おこなう。ピストルやタイプライター、サイレンなどの効果音を用いたダダ的な演出だったため、聴衆から大ブーイングを浴びる。ドゥビュッシーと決別。
 1920年前後よりピカビアやデュシャンらのパリ・ダダ運動に参加。ベルギーで若いメザンスと出会う。サティに影響を受けたダリウス・ミヨーやアルチュール・オネゲル、フランシス・プーランクら「新青年派」が「6人組」として誕生。
 1921年、ブリュッセルで「エリック・サティ祭」が開かれる。マン・レイと知り合う。
 1924年、コクトーや「6人組」と決別。ブルトンとも仲たがいし、引きこもりがちとなる。サティが音楽を担当し、出演もしたルネ・クレールの映画『幕間』が上映される。
 1925年、肝硬変で入院。7月10日に他界。

 【参考文献】

 『エリック・サティ詩集』 エリック サティ (著), 藤富 保男 (翻訳)  思潮社 (1989/12)

 『エリック・サティ』 アンヌ・レエ(著) 村松潔 (訳)  白水社 (2004/05)

 『エリック・サティ覚え書』 秋山 邦晴 (著)  青土社 新装版版 (2005/10)


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