ジョゼフ・アントワン・ブーラン(Joseph Antoine Boullan)

1858年 リヨン(仏)生 ― 1918年 没 

 【略歴】
 1824年2月18日、タルン=エ=ガロンヌ県のサン・ポルキエ村に生まれる。ローマで神学を学び、優れた成績で神学博士となる。イタリアでは貴い血の宣教団に所属し、アルザス地方のテュルケムに近い修道院に派遣され、2年も立たぬうちに院長に就任。
 1854年、修道院を去り、パリに赴いて無任司祭として執筆活動などおこなう。
 1856年、前年末に原因不明の病から奇跡的に回復したソワッソンのサン・トマ=ド=ヴィルヌーヴ修道院の修道女、アデル・シュヴァリエの指導に当たる。
 1859年、アデル・シュヴァリエと共にパリ郊外に修道会を創設。病気や「悪魔憑き」に悩む信者に尿や糞からなる偽薬を与える。
 1861年、詐欺と公然猥褻罪で裁判にかけられる、懲役3年の刑に処せられる。
 1870年、雑誌『19世紀における聖性年代史』を発刊。その後、「悪魔憑き」に悩む修道女にイエスや聖人たちと性的に交わることを夢想させる自己催眠の方法や性的療法を教示する。
 1875年、異端教義を唱えたかどでパリの大司教から破門される。その後、預言者エリアの再来を自称して「カルメル会」を率いる老魔術師ウジェーヌ=ミシェル・ヴァントラスと文通を始める。年末にヴァントラスが亡くなると、彼が自分を後継者に指名したとふれまわる。
 1876年、洗礼者ヨハネの生まれ変わりと称し、 ヴァントラス信者の一部を取り込んでリヨンに共同体を設ける。その教えは人類の贖罪は宗教的な性行為によって果たせるというものだった。なお、性的秘儀は秘密教義とされていた。
 1886年、社会主義的な考えから反教権主義を唱えるロカに秘儀の一つを開示する。
12月、噂を聞きつけて組織に潜伏していたガイタ侯爵の弟子、オスワルト・ヴィルトに性的密儀の証拠を握られる。
 1887年、ガイタ侯爵より彼らの秘密法廷により死刑宣告された旨の5月24日付の手紙を受け取り、ガイタらから呪いの挑戦を受けたと考える。
 1890年、ユイスマンスより悪魔主義に関する資料協力の依頼を受ける。9月にはユイスマンスの訪問を受け、親交を深める。
 1891年、ガイタらとの呪術戦争が激化する。ユイスマンスがパリの友人に当てた手紙には「このリヨンの善良なブーランの家では、至るところ大乱戦です。彼は、とても風変わりな夢遊病者の女とティボー夫人を助手に、奮闘し、殴り合っています」と書いてあった。
 1893年1月4日、心臓麻痺で急死。享年69歳。前日、ユイスマンスに「胸が苦しい」など死を予兆する手紙を出していた。

 【参考文献】
 『ユイスマンス伝』 ロバート・バルディック(著) 岡谷公二(訳)  学習研究社 (1996/11)
 
 『悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人』  澁澤龍彦(著)  中央公論新社 (1982/01)


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