ジョセファン・ペラダン (Josephin Peladan)

1858年 リヨン(仏)生 ― 1918年 没 

 【略歴】
 1858年3月28日、リヨンに生まれる。本名はジョゼフ・エーメ・ペラダン。父親は王党派カトリックの言論人で、リヨンで新聞や雑誌を主宰し、多くの知識人を自宅に招いていた。兄のアドリアン・ペラダンは早熟で、12歳で本を執筆し、ヘルメス学やカバラなどの隠秘学に精通していたが、ストリキニーネの過剰摂取で早世する。兄の影響を強く受けていたジョゼフ・ペラダンは兄の蔵書をそっくり受け継ぎ、オカルト関係の知識を膨らませていった。
 アヴィニオンやニームを経てパリに上京し、バルビー・ドールヴィィやユイスマンス、ヴィリエ・ド・リラダンらと交流する。
 1881年、イタリアを旅行してレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ、ミケランジェロの作品に出会い、特にアンドロギュノス的なイメージを描くレオナルドの作品に最初の啓示を受ける。
 1882年頃から小説『ラテン的頽廃ー風俗誌』を執筆し始める。本書は全21巻を数え、初巻の「至高の悪徳」が出版されたのは1884年、最終巻が出版されたのは1925年だった。内容は進歩思想や物質主義に汚染されたラテン文明を救うため、らゆる性を否定する性――アンドロギュノスを柱にしてカトリシズムと神秘学を融合した新しい宗教の構築を目指すというものだった。
 1888年、 バイロイトでワグナーの『パルジファル』を観劇し、レオナルドに次ぐ2番目の啓示を受ける。
 1889年、スタニスラス・ド・ガイタ侯爵らと「薔薇十字カバラ会」を創設。ポール・アダンやローラン・タイヤード、詩人のエドワール・デュビュなどの著名な文人が会の周辺に集まった。デュビュは後に発狂。
 1890年、ガイタ侯爵がヘブライ的カバラ的傾向を強くもつのに対し、ペラダンは正統カトリックを尊重していたため、袂を分かち、「カトリック薔薇十字サロン」を創設。しかし、その後も二人の交流は続く。同年、ワグナーオペラの詳細な解説書『ワグナー演劇全集』を刊行。
 1891年、 『死せる知識の階段講堂』第1巻を刊行。(本書は全7巻で最終巻の出版は1911年)
 1892年3月10日、ペラダン主催の第1回「薔薇十字展」が、パリのデュラン・リュエル画廊で開かれる。アントワーヌ・ド・ロシュフーコー伯爵がスポンサーとなり、シュヴァーベが展示会のポスターを手がけ、エリック・サティが音楽を担当。初日だけで1万1千人の観衆を集めた。ベルギーからクノップフデルヴィル、アンリ・ド・グルー、オランダからヤン・トーロップが出品。モロールドンピュヴィス・ド・シャヴァンヌは招待されたが出品しなかった。
 「薔薇十字展」は1897年まで全6回開催された。モーリス・ドニやルオーは最後まで付き合ったが、エミール・ベルナールやヴァロトンらは途中で参加をやめた。
 ペラダンはその後も執筆活動を続け、1918年に他界する。
 1922年、ペラダンの最も優れた小説のひとつに挙げられる『アヴィニョンの信心ぶかい女』が出版される。
 1952年〜1958年、『サール・ジョゼファン・ペラダンの思想と秘密』全4巻が出版され、「薔薇十字カバラ会」の内紛の経緯などについて詳細が明らかとなる。

 ※ペラダンはカトリックとオカルトの融合を目指していたが、旧約聖書を重視せず、アレクサンドリア風のグノーシス主義や新プラトン主義的汎神論に影響された思想をもっていた。また、ラテン文化を愛するあまり、ゲルマン文化を敵視し、ガイタが傾倒するエリファス・レヴィやサン・ティヴ・ダルヴェードルについてもあまり評価が高くなかったという。

 バルベー・ドールヴェイはペラダンの『ラテン的頽廃ー風俗誌』初刊『至高の悪徳』に次のような序文を寄せている。
「往々にして、堕落を描く人々に好まれ、またはそれに感嘆するのを恐れる無邪気な小心翼々たる人々を不安に陥れるこれらの腐敗にたいして、これほど力強いこれほど果敢な筆致で攻撃を加えた人を、私は知らない。……悪徳をあたかも慈しむように決然と描き、悪徳をひたすら糾弾し、呪うために描いている。その幻惑、魔力、魅力、すなわち人間の魂に絶大な力を及ぼすものを一つとして取り去ることなく、それを描き出す。その地獄の魅力を、まさに並外れた芸術家の激しい情熱で、あたかも天上界の魅力のごとくに思い込ませてしまうのである」

 アナトール・フランスは『文学生活』第3巻で、ペラダンとドールヴェイについて次のように述べている。
「バルベー・ドールヴェイは、きわめて厄介なカトリック教徒であった。ジョゼファン・ペラダン氏は、自身が擁護している人たちにとって、さらにもっと危険な人物であった。おそらく彼は、『魔性の女たち』を書いた老師ほどには、涜聖に走らなかった。というのは、ドールヴェイにとっては、涜聖そのものが、この上ない信仰の表明にほかならなかったからだろう。だがペラダンの方がずっと淫蕩で傲岸不遜である。彼にはさらにまた罪悪を好む傾向がある。それに加えて、プラトン派で魔法道士である。福音書にたえず魔術書を混ぜ合わせる。ヘルマフロディトゥスの観念に取り浸かれており、彼の本はことごとくそこから着想を得ている」

                『肉体と死と悪魔 ロマンティック・アゴニー』 マリオ・プラーツ(著)Vビザンチウムより

 【参考文献】
 澁澤龍彦 『悪魔のいる文学史』
 『肉体と死と悪魔 ロマンティック・アゴニー』 マリオ・プラーツ(著)


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