フェリシアン・ロップス (Felicien Rops)

833年 ナミュール(ベルギー)生 ― 1898年パリ(仏)

『聖アントニウスの誘惑』

 【略歴】
 1833年、ベルギーのナミュールで工業家の一人息子として生まれ、厳格なイエズス会教育を受ける。
 1849年、15歳のときナミュールの美術学校に入学するが、父親が他界。
 1853年、ブリュッセル大学で法律を専攻するとともにアトリエ・サン=リュックに通う。成人となったことで父親の遺産を正式に相続し、その金で風刺雑誌「ウイレンスピーゲル」を発刊。ドーミエやガヴァルニを思わせるリトグラフの挿絵を寄せて評判を呼ぶ。
 1858年、同時代の政治を風刺したリトグラフ集『政治喜劇』及び『政治笑い話』を刊行。パリのエトセル社のためにシャルル・ド・コステルの『フラマン伝説集』に挿絵を付ける。
 1862年、パリに移り住み、ブラックモンやジャックマールのもとでエッチングを学ぶ。ソフトグランド・エッチングの手法に注力するにつれて、作風がリアリズムからサンボリスム(象徴主義)的に変化する。ゴーティエやヴェルレーヌ、リラダンなどの詩や小説に挿絵をつける。かねてより骸骨趣味やエロティックな幻想で共通点のあったボードレールの『漂流物』の扉絵を描く(1866年にアムステルダムで出版された)。また、挿絵だけでなく『グランド・ジャッド島』『モンマニーの森』などの写生画も手がける。
 1868年、ブリュッセル美術自由協会の設立に尽力し、副会長となる。有名な『踊る死神』を描く。
 1874年、フランスに戻り、妻がありながらオーレリー・デュリュック姉妹と同棲。ほかにも数多くの女性と浮名を流す。
 1878年、『娼婦政治家』(豚を連れた女)を制作。
 1883年、ソフトグランド・エッチングによる5点連作の『悪魔的なるもの』、及びシリーズ『悪魔に憑かれた人びと』を制作。ユイスマンスが『悪魔的なるもの』に言及している。
 1885年、《20人会》に加入。アメリカ合衆国に初めて旅行。87年にも渡米している。
 晩年の10年は眼病に悩み、デュリュック姉妹と娘のカミーユとともに、パリ郊外のエッソンにある自宅のラ・ドゥミ・リュンヌ(半月荘)で暮らす。1898年に逝去。

 ユイスマンスは『ある人びと』のなかでロップスの作品について次のような見解を述べている。
「周知のように、実は禁欲がぞっとするような淫らな考えを生むのである。キリスト教を信じず、したがってやむなく純潔を守っている者が、なかんずく孤独な生活をしていると、過度に神経が昂ぶり、独りで興奮し、支離滅裂なことを言うようになる。そうなると、覚醒夢にとりつかれながら、想像のなかで途方もない淫楽の果てまで行きついてしまうのである」
                       『肉体と死と悪魔 ロマンティック・アゴニー』 マリオ・プラーツ(著)


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