マリオ・プラーツ(Mario Praz)

1896年 ローマ(伊)生 ―1982年 ローマ(伊)没 

 【略歴】
 1896年9月6日、ローマに生まれる。
 1900年、父親が他界し、母親とともにフィレンツェに住む叔父のもとで暮らす。
 ボローニャ大学に入学して法律を学ぶが、1年間の在学の後、ローマ大学に移る。学生時代は法学を学ぶかたわら、バイロンをはじめとする各国の詩や文学を愛読する。
 1918年、国際法に関する学位論文を提出してローマ大学を卒業。
 卒業後は法律事務所に就職したが、文学への思いを捨てきれず、ダヌンツィオを研究して博士論文を準備し、2年後に事務所を退職する。この頃よりスゥンバーンやテニソンらイギリス詩人やボードレール、サマンらフランス詩人の作品をイタリア語に訳す。ダヌンツィオ研究はその後、最初の論文『ガブリエレ・ダヌンツィオ 田園詩人』として実を結ぶ。
 1919年末から翌20年にかけて、アイルランドの詩人ハーヴァート・トレンチを通じてイタリア研究家で閨秀作家のヴァノン・リーと知り合う。彼の紹介でLondon Mercury誌に『イタリアからの手紙』を連載し、これが縁となってロンドンに留学する。
 ヴァノン・リーを通じてロンドンの文学者たちと交流し、さらにはシャルル・デュ・ボスやロマン・ロランらの知遇を得る。
 その後、イタリアの有名な哲学者・歴史学者のベネデット・クローチェ(Benedetto Croce 1866-1952年)にダヌンツィオに関する研究が高く評価され、1923年『La Critica』に掲載される。
 1924年からリヴァプール大学でイタリア文学を教え始める(〜32年)。その後、マンチェスター大学で同じ職に就く(1932年〜1934年)。
 1926年、イタリアの専門誌「La cultura」に後の『ロマンティック・アゴニー』の序論「ロマンティスム論」の基となる同名の論文を掲載。しかし、クローチェは、ロマン主義を古典主義の明確な対立概念としないプラーツの論議を批判した。
 1930年、プラーツの主著 『ロマン主義文学における肉体と死と悪魔』(La carne, la morte e il diavolo nella lettaratura romantica)の初版がイタリアで出版される。
 1933年、同著が英訳され、『ロマンティック・アゴニー』(Romantic Agony)としてイギリスで出版される。同年、マンチェスター大学のイタリア語講師をしていたスコットランド出身のヴィヴィアン・アイルズと結婚。ケンブリッジ大学に移るため、教授職に立候補するがかなわず、翌年イタリアに帰国。
 1934年、ローマ大学で英文学教授に就任(〜1966年)。ローマのジュリア通りに面するパラッツォ・リッチに新居を構える。同年、『綺想主義研究』(Studi sul concettismo)が出版される。
 1937年、『イギリス文学史』(Storia della Letteratura Ingrese)を出版、その後も多数の著作・論文を手がける。翌38年、ヴィヴィアンとの間に娘ルチアをもうける。
 1943年、 ヴィヴィアンと離婚。その後は文筆生活のかたわら美術品・骨董品の収集や鑑識などをして静穏に暮らす。
 1958年 自伝的作品『生の館』(La Casa della Vita)初版がイタリアで出版される。
 1969年、パラッツォ・リッチからパラッツォ・プリモリに移り、晩年までそこで過ごす。
 1982年3月23日、ローマにて逝去。

 ローマのパラッツォ・プリモリは現在、マリオ・プラーツ美術館として一般公開されている。
 Museo Mario Praz : Palazzo Primoli, via Zanardelli, 1 - 00186 Roma

 なお、中条省平氏によると、ルキノ・ヴィスコンティの映画『家族の肖像』でバート・ランカスターが演じる主人公の大学教授は、マリオ・プラーツがモデルだそうだ。

                            〜以上、『肉体と死と悪魔』巻末の解説その他を参考とする。



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