ドミニク・アングル (Jean Auguste-Dominique Ingre)

1780年 ムスティエ(仏)生 ―1867年 パリ(仏)没 

 【略歴】
 1780年8月29日、フランス南西部のモントーパン近郊の村ムスティエに生まれる。幼い頃から装飾美術を手がける父にデッサンを学び、12歳のときトゥールーズの美術学校に入学する。
 1797年にパリに上京し、ダヴィッド の弟子となる。
 1801年、『アガメムノンの使者たち』でローマ賞を受賞。ところが、ナポレオンのエジプト遠征による財政的の事情からローマへの留学を1806年まで延期される。
 ローマではフランスが所有していたメディチ家の別荘に寄宿し、古代遺跡やルネサンス美術を訪ね歩いてデッサンの研究を重ねる。とくにラファエルに傾倒する。
 ローマ時代に『エディプスとスフィンクス』(1808)、『浴婦』 (1808)、『グランド・オダリスク』 (1814)などを描き上げたがパリではいずれも「ゴシック的」、「変」だと酷評された。アングルは留学期間を終えても私費でローマやフィレンツェに滞在し続けた。
 1824年、帰国して『ルイ13世の誓い』をサロンに出品。間もなくレジオン・ドヌール勲章を受け、アカデミー会員に選出される。
 1828年、美術学校の教授に就任し、ルイ・ジャンモら後進の指導にあたる。
 1834年、ローマのメディチ家別荘にあるアカデミー・ド・フランスの院長としてローマに滞在。
 1841年、フランスに再帰国し、政府や要人の依頼を受けて公共建築物の壁画や肖像画を描く。
 1855年、パリの万国博覧会で大規模な回顧展が開かれる。
 1856年、『泉』を完成させる。
 1863年、裸婦画の集大成である『トルコ風呂』を完成させる。
 1867年1月14日、パリにて逝去。

 ※アングルは通常、新古典主義に属する画家とされるが、ボードレールは彼の作品について「過去の芸術に全く類を見ない、甘美で奇異な幻想である」と述べている。


 『アングル』 ロバート・ローセンブラム (著), 中山 公男 (翻訳)



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