【略歴】
1929年1月4日、ウィーンで生まれる。父親はユダヤ系リトアニア人で畸形足専門の靴職人だった。2歳半のとき田舎で仔牛のデッサンをして以来、9歳になるまで動物の絵ばかり描く。
1942年から45年にかけて、ナチスの強制労働に従事。
1945年にウィーン美術学校に入学し、ギュテルスロー教授に師事する。ハウズナーらが創設したウィーン・アートクラブに参加。
1951年からフランス、北アフリカ、中東を旅行。リュート奏者やフォークシンガー、ダンサーとして各地のナイトクラブに出演して生活費を稼ぐ。途中、イエメンで現地女性のネオミと結婚。パリで芸能生活を続ける。
1952年、イスラエルに滞在。昼の間は絵を描き、夜はネオミと歌手やダンサーをして暮らす。
1954年、パリの画壇で歓迎される。この頃よりブラウアーらしい技法が完成される。
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『新星』(*2)
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1961年から72年にかけて、ウィーン、パリ、イスラエルと転々としながら創作活動をおこなう。70年にはチューリッヒのボマルゾ・オペラ劇場の舞台装飾を手がける。
1966年、 代表作、『シナイ山の水飲み男』を描く。
1972年、ウィーンのメデア・オペラ劇場の舞台装飾を担当。
1982年、アメリカで個展を開き成功をおさめる。
ほかにもウィーンやイスラエルで複数の建築プロジェクトに参加し、数多くの壁画、床絵、装飾を手がける。
(*1) 回想 ボードに油彩(1965) 130x160cm
(*2) 新星 ボードに油彩(1971) 140x108cm
「シュミートにしたがえば、至近距離で見るとき彼の画面は、オリエント風の宮殿の群や、樹木や人物や、獣や浮き島や、奇怪な曖昧な生き物でいっぱいである。超現実的なものがあるとすればそれらの対象の大小のプロポーションだけで、対象自体にはなにひとつ曖昧なものはない。だがひとたび数歩退いてあらためて画面を見ると、光の霧が描かれた対象のまわりをびっしりと覆っている。この光は霧のままにとどまるか、それともダイヤモンドのように明るい閃光を発するかだが、いずれにしても完全には対象性をもつことはない。それは流出(エマナシオン)であり、神秘的な発光であって、画面はそこから透明さを獲得する」
〜『迷宮の魔術師たち―幻想画人伝』 種村李弘(著)より〜
【参考文献】
『ウィーン幻想絵画展図録』 朝日新聞社
『迷宮の魔術師たち―幻想画人伝』 種村李弘(著)
ブラウアーについてもっと詳しく知りたい方は上記の本をお読みください。
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