ルドルフ・ハウズナー (Rudolf Hausner)

1914年 ウィーン(墺) ― 1995

 【略歴】

『オデッセイの箱』(*1)

 1914年12月4日、ウィーンに生まれる。
 1931年、ウィ−ン美術アカデミーに入学。後期印象派のファーリンガー教授やステラー教授に師事する。36年まで在学したが、もっぱらボヘミアン生活のうちに過ごす。
 1938年、ナチスにより頽廃芸術の烙印を押される。
 1941年、ドイツ軍に召集される。
 1943年10月、カルパチア山脈のタトラ高地に射撃場をつくるため派遣されたが、猛吹雪によって3人の兵士仲間と丸太小屋に閉じ込められる。ひとり板の壁を黙然と睨みつけていたところその木理のなかに不可思議な光景を発見して啓示を受ける。45年に除隊。
 1945年、終戦後、ギュータースロー教授の後ろ盾のもと、オーストリア・アートクラブを創設。エルンスト・フックスやエドガー・ジュネ、ヴォルフガング・フッターと共にシュルレアリトグループをつくり、後にアントン・レームデンエーリッヒ・ブラウアーが加わる。ハウズナーは他のメンバーより10歳以上年長者だったことから、指導的な役割を果たした。
 1946年、ウィーンのコンサートホールで第1回展覧会を開くが、観衆に作品を撤去するよう要求される。
 1956年、6年の歳月(48〜51年及び53〜56年)を傾けた『オデッセイの箱』(*1)が完成(ウィーン市立歴史美術館所蔵)。ヨハン・ムシク教授がウィーン派(ハウズナー、フックスフッターレームデンブラウアー)をシュルレアリスムと区別して「ファンタスティック・レアリスム」と名づける。
 1957年、自分の顔をデフォルメし、連想を増殖させる「アダム」シリーズを描きはじめる。
 1959年、ベルベデーレ上宮でウィーン派の初のグループ展が開かれる。
 1960年、ローマに滞在。グスタフ・ルネ・ホッケと交流。ホッケは後年、ハウスナーに関する論文を書いている。
 1962年、ウィーンフェスティバル週間のためにクンストラーハウスで展覧会を開く。ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスを旅行し、マグリットポール・デルヴォー、ドロテア・タニングらと交流する。

『回転軌道のラオコーン』(*2)

 1965年、ドイツ・ハノーヴァにおけるケストナー協会の展覧会でウィーン派が国際的な評価を得る。
 1966年、アメリカに滞在。
 1967年、ミュンヒェンで絵画の最高賞フルダ賞を授かる。
 1968年、ドイツ・ハンブルク美術学校及びウィーン美術学校の教授に就任。
 1969年、ウィーン賞を受賞。 『回転軌道のラオコーン』(*2)制作。
 1970年、オーストリア国家賞(美術部門)を受賞。
 1995年2月25日に他界。

 種村李弘は『迷宮の魔術師たち』の中で、「[彼の]語り口は無数の絵画的「引用」を厳密に構成主義的に見立てた、仮面の告白にほかならない……(中略)……生の直接的な告白を避けて、たえず引用につぐ引用の長い錯綜した迂回路をたどりながら自我の真の顔に到達しようとするこの試みは、挿話的な細部を無限に増殖させて物語的な興趣を豊かにはしてくれるものの、それとひきかえに終わりのない迷宮を行手に繰り広げる」と書いている。

 (*1) オデッセイの箱(Die Arche des Osysseus) 合板にテンペラ・樹脂絵具 85x141cm
 (*2)
回転軌道のラオコーン(Laokoon in der Umlaufbahn)

 参考文献:
 『ウィーン幻想絵画展図録』 朝日新聞社
 『迷宮の魔術師たち』 種村李弘(著)



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