アントワーヌ・ウィールツ (Antoine-Joseph Wiertz)

806年 ディナン(ベルギー)生 ― 1865年 

『麗しのロジーヌ』

 【略歴】
 1806年、アントワーヌ・ウィールツ(あるいはヴィールツ)は、ベルギーのディナンで仕立て屋の家庭に生まれる。幼い頃からデッサンや彫刻に興味を覚え、父親の友人の芸術愛好家ポール・メーブにデッサンを教わる。
 1820年にアントウェルペンの美術学校に入学。
 1829年〜32年にパリに滞在。1832年にローマ賞を受賞し、34年〜37年にかけてイタリアに遊学。ラファエロやミケランジェロを研究するとともに、当時メディチ家別荘のアカデミー・ド・フランスの院長を務めていたアングルと交流する。
 1835年に油絵『パトロクロスの遺体を争いあうギリシア人とトロイア人』を描き、ローマで発表して好評を得る。しかし、パリでは不評。
 その後、リエージュを経て1848年にブリュッセルに移り住む。
 1850年、ベルギー政府から大作7点の制作などを条件にアトリエを取得する。その家が現在の国立美術館であるウィールツ美術館となる。つや消しペイント法を化学的に発見し、それを制作に用いた。



 『愛しのロジーヌ』や『飢えと狂気と犯罪』、『あわただしい埋葬』、『死の1秒後』など、死と官能をテーマとした作品を好んで描いた。また、ルネサンス期のミケランジェロに憧れたためか、サイズ的に巨大な作品が多かった。

 作品の多くはブリュッセルにあるウィールツ美術館にある。(→The Wiertz Museum )

 澁澤龍彦は『幻想の肖像』でウィールツの『麗しのロジーヌ』を紹介し、こう語っている。
 「向かい合った裸体の少女と骸骨とは、要するに同じ人間の別のすがたにすぎないのである。両者は互いにしげしげと見つめ合っている。この女らしく成熟した、豊満な肉体美を誇る少女もやがて、死すべき時がくれば、彼女の前に立っている骸骨のように、肉も血も失せた、乾からびた醜い形骸と化してしまうだろう。そういう寓意を、この絵はあらわしているのでもあるかのようである。(中略)
 ヴィールツの新しい19世紀の「死と少女」は、そうした[(中世キリスト教の「死を思え」メメント・モリというような]宗教的な発想から描かれたというよりも、むしろテオフィル・ゴーティエ風の怪奇ロマンティシズムから着想を得た、というべきであろう。ヴィールツは骨の髄までロマン主義的な気質の画家であり、しかも当時の文学者たち、ユゴーやゴーティエやメリメがそうであったように、多分に文学的な陰惨趣味の持ち主でもあったようである。」






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