マルキ・ド・サド (Marquis de Sade)

1900年 パリ(仏) ― 1955 ウッドベリー(米)

 【略歴】
 1740年6月2日、パリのコンデ公の邸宅で生まれる。本名、ドナティアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。
 サド家は南仏プロヴァンス地方のアヴィニヨンに近いラコストに領地と城をもつ中世から続く貴族だった。
 7年戦争に従軍後、1763年、司法長官モントルイユの娘、ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネーと結婚。
 1768年、パリ近郊のアルクイユの別荘に乞食女ローズ・ケレルを監禁し、鞭で打つという事件を起こし、城砦に7ヶ月間、拘禁される(=アルクイユ乞食女鞭打事件)。
 1772年、下男ラトゥールとマルセイユの売春宿に行き、4人の娼婦に催淫剤入りのボンボンを飲ませ、鶏姦やサディスティックな行為を含む乱交をおこなう(=マルセイユのボンボン事件)。
 その後、夫人の妹であるアンヌ・ド・ローネーと共にイタリアに逃亡。プロヴァンス高等裁判所は「毒殺未遂及び鶏姦」のかどで死刑を宣告する。1か月後に義母モントルイユ夫人の差し金で逮捕されミオラン城に幽閉されるが、その後脱出し、3年半ほどラコスト城に引きこもる。この間もメイドとして雇った若い女や夫人とともに乱交行為を続ける。
 1778年、毒殺未遂の容疑が晴れて死刑判決が破棄されたが諸事情により逮捕されヴァンセンヌの監獄におよそ5年半、収容される。続いてバスティーユ監獄に移され、さらに5年半の幽閉生活を送る。サドはこの11年間の獄中生活のなかで、作品のほとんどを執筆する。
 1789年7月2日、フランス革命前夜にバスティーユ監獄の窓から民衆を扇動。危険人物と見られてシャラントン精神病院に移送される。
 1790年4月2日、革命により自由を得る。
 1791年、『ジュスティーヌ、あるいは美徳の不幸』を刊行。官憲の目を誤魔化すため、作者は死んだことにし、版元はオランダということにした。
 1795年、『アリーヌとアクバル』『閨房哲学』を刊行。
 1797年、『ジュリエット物語、あるいは悪徳の栄え』と『新ジュスティーヌ』を刊行。
 サドは共和主義に加担して政治活動をおこなうが、反革命分子と見られてたびたび逮捕される。
 1799年、ブリュメー

ル(11月)18日クーデターによりナポレオンが執政政府を樹立し、独裁政治を始める。
 1800年、短編集『恋の罪』を刊行。
 1801年、 『新ジュスティーヌ』と『ジュリエット物語』の著者として「風俗紊乱罪」で逮捕される。
 その後、いくつかの牢獄を経てシャラントン精神病院に移送され、亡くなるまで幽閉される。
 1814年12月2日に他界。遺書には「余の名前が永遠に人類の記憶から消え去ることを望む」と書いてあった。


 【参考文献】
 『サド侯爵の生涯』 澁澤龍彦 (著)  中央公論新社 (1983/01)

 『サド侯爵の生涯〈1〉無垢から狂気へ 1740~1777
  ジャン=ジャック ポーヴェール(著) 長谷泰 (訳) 河出書房新社 (1998/06)

 小説家のユイスマンスはサディズムについて次のように述べている。
「サディズムは何よりもまず、涜聖の実行、道徳的叛逆、精神的放蕩、完全に観念的でキリスト教的な錯乱の裡にこそ存するのである。それはまた、恐怖によって鎮められた歓喜、両親が触れてはならないと言って禁ずれば禁ずるほど、いよいよ禁じられたもので遊んでみたくなる、あのわがままな子供の邪悪な満足感に似た、一種の喚起の裡に存するのである。…(中略)…
 実を言えば、サド侯爵の名前から由来したこの症例は、教会と同じくらい古くから存在していた。そんなに昔に遡らなくても、たとえば18世紀には、中世紀の夜宴(サバト)の淫靡な儀式が単純な隔世遺伝現象によって復活して、サディズムはしょうけつを極めたのである」
              『肉体と死と悪魔 ロマンティック・アゴニー』 マリオ・プラーツ(著)Vビザンチウムより

 【マルキ・ド・サドの著作】
 『悪徳の栄え〈上〉』  渋澤龍彦 (訳) 河出書房新社 (1990/10)

 『美徳の不幸』 渋澤龍彦 (訳) 河出書房新社 (1992/12)

 『ソドム百二十日』 渋澤龍彦 (訳)  河出書房新社 (1991/04)

 『新ジュスティーヌ』 渋澤龍彦 (訳) 河出書房新社 (1987/07)

 『食人国旅行記』 渋澤龍彦 (訳) 河出書房新社 (1987/04)

 『閨房哲学』  渋澤龍彦 (訳) 河出書房新社 (1992/04)


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