ピエール・モリニエ (Pierre Molinier)

1900年 アジャン(仏) ― 1976 ボルドー(仏)

(*1)

 【略歴】
 1900年4月13日金曜日、フランス南西部のアジャンに生まれる。父親はペンキ職人、母親は裁縫師だった。
 1913年、父親のもとで働きながら絵画スクールの夜学に通い始める。
 1918年、愛していた妹が亡くなる。一説によると妹の遺体と交わり、腹部と脚に精液をぶちまけたという(wikiより)。この頃より女装癖にめざめる。
 1920年から22年にかけて軍役に就く。その後、パリに出て美術館に通いつめては模写にいそしむ。
 1923年、ボルドーに移り住む。ペンキ職人として働くかたわら印象派風の風景画や肖像画を描き、毎年のようにボルドーのサロンに展示。
 1928年、 国民美術協会展(the Societe Nationale des Beaux-Arts)に出品。何人かのメンバーとボルドー独立芸術家協会を創設。
 1944年、父親が薬物中毒の果てに自殺。
 1946年、ダライ・ラマの使節団からマンダラの制作を依頼されたことがきっかけで秘教的なイメージを好むようになる。
 1948年頃 から独特な女肉の花がモチーフとして描かれるようになる。
 1950年、アパートで、臨終や磔刑、自殺等のシーンを演じる自分を撮影し始める。
 1951年、肉体のもつれ合いを描いた絵が秋のサロンでスキャンダルとなり、ボルドー独立芸術家協会を脱退。
 1952年、パリで個展を開くため、アンドレ・マルローに会う。愛娘フランソワが家を出る。
 1955年、アンドレ・ブルトンと知り合う。
 1956年、ブルトンが主宰するパリのエトワール・セレ画廊で個展を開く。詩人・作家のジョイス・マンスールと知り合う。
 1959−60年、シュルレアリスム展に「楽園の花」などを出展。
 1960年、妻に対する暴力と従兄弟に向けて銃を撃ったことから1ヶ月の禁固刑。
 1962年、トゥールーズのシネマテーク館長・レイモン・ボルドがモリニエのドキュメンタリー映画を撮影(66年公開)。
映画『エマニュエル夫人』の原作を書いたエマニュエル・アルサン(Emmanuelle Arsan 1940-、バンコク生)に熱烈なファンレターを書き、12月に会う。
 1967年、パリでアートと性の問題の研究者、ペーター・ゴルセン(Peter Gorsen)教授と知り合う。彼の愛人ハネル・ケーク(Hanel Koeck)をモデルにして、SMをテーマとするフォトモンタージュを作成。
 その後、 ティエリー・アギュロ(Thierry Agullo,1945-80)と知り合い、彼を自分の後継者として扱う。
 1975年、 アギュロと両性具有をテーマとしたフォトセッションを敢行。
 1976年3月3日、屋根裏のアトリエでピストルを口内に向けて撃ち自殺を遂げる。
 1979年、アギュロ、モリニエ詩集『魔法のブラスバンド』を出版。

 さらに詳しく知りたい方はこちら (フランス語+英語)をご覧ください。

(*1) モリニエの女装写真(25歳当時)



(*2)

  アンドレ・ブルトンは『シュルレアリスムと絵画』の中で、モリニエについて以下のように述べている。

「…モリニエの才気は、もはや稲妻で撃たれた女ではない、稲妻で撃つ女を出現させ、その女を志向の猛獣としてくっきりと描くことに特徴をもっている。断乎として魔術的であろうとし、だまし絵の幼稚な技法を(たとえそれが想像力に奉仕させられるものであろうと)あくまでも軽蔑する彼の芸術の美徳は、いかに喚起力に富むものであろうと描かれたイメージのすべてはとにかく意識された錯覚の対象にとどまるべきであり、生活への積極的介入という局面にまで達してはならないとする法規を、犯すことにある」と述べている」

「彼の花々は、たとえまきちらされた芍薬であろうと、ばちあたりな雑種性のゆえにいよいよ蠱惑的なその尻のなかから、いまも芳香をはなっている」

(*2) La communion d'amor 54x45, 1968-71

【参考文献】

シュルレアリスムと絵画』 アンドレ・ブルトン(著) 瀧口修造・巌谷国士監修 人文書院

ピエール★モリニエ画集 新装復刻版』 エディシオン・トレヴィル (2007/11)



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