フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff)

1858年 クレムベルゲン(ベルギー) ― 1921年

  フェルナン・クノップフはジャン・デルヴィルと共にベルギー象徴主義を代表する画家である。

【略歴】
 1858年、母方の祖父の城があったクレムベルゲンに生まれる。
 父の仕事の関係で、1859年〜65年までブリュージュに住む。そこで後にジョルジュ・ローデンバックが『死都ブリュージュ』で描く"死の都"のイメージに魅了される。64年に妹のマグリットが生まれる。
 1976年、ブリュッセル大学の法学部に入学するが、グザヴィエ・メルリの画塾に通い、象徴主義に惹かれ、ブリュッセルの美術アカデミーにも出入りする。1877年〜80年に何度もパリを訪れ、モローやドラクロワの作品に心酔、また、バーン・ジョーンズやロセッティなどラファエル前派の作風に影響を受ける。
 1881年、ブリュッセルのレソール画廊のグループ展でデビュー。詩人のヴェラーレンが彼の作品に注目。
 1883年、《20人会》の創設メンバーに加わる。初期の代表作の一つ、『シューマンを聴きながら』や象徴主義の色合いが濃い『フロベールにならって』を描く。
 1885年、ジョセファン・ペラダンと知り合い、彼の教説に共感する。ペラダンも彼を気に入り、短編集『ラテン民族の凋落』の一部の作品に扉絵を依頼。ほかにもローデンバックやルロワと交流があり、いくつかの挿絵を描く。また、社交界にも出入りし、数多くの肖像画を描いた。

『私は私自身に扉を閉ざす』

 1887年〜89年、シリーズ『ヴェラーレンとともに』 89年『ローデンバッハとともに』などを描く。
 1889年、代表作の一つ『思い出』を完成。この頃からイギリスのラファエル前派のロセッティ、バーン・ジョーンズらと交流を始める。
 1890年、ロンドンのハノーヴァー画廊で最初の個展。その後も何度かロンドンに滞在し、美術誌『The Studio』のベルギー通信員として寄稿を続ける(〜1914年)。
 1891年、 代表作の一つ『私は私自身に扉を閉ざす』を完成(ノイエ・ピナコテーク所蔵)。これはロセッティの妹、クリスティーナ・ジョージナ・ロセッティ(1830-94)の1864年の詩『誰が私を解き放つ』にインスパイアされたもの。
 1892年、ペラダンの要請に応じて第1回《薔薇十字》展に出品。93年、94年、97年にも参加。ほかにもロンドンやミュンヒェン、パリ、ヴェネツィア等の展覧会に出品。
 1896年、代表作の一つ『愛撫』を完成。1898年の第1回ウィーン《分離派》展のクノップフ特別室に他の20点とともに陳列される。
 1900年より、ブリュッセルのクールス街に新居として青、金、白からなる美の神殿を建設すべく注力。
 1903年以来、ブリュッセルの王立造幣劇場に依頼され、オペラの衣装や舞台装置のデザインを手がける。
 1904年以降、幼児期を過ごしたブリュージュの絵を描く。
 1908年、マルト・ヴォルムスと結婚(〜1911年)。
 1921年、逝去。



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