マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grunewald)

1455年頃 ヴュルツブルク(独)生 ―1528年 ハレ(独)没 

 マティアス・グリューネヴァルトは本名マティス・ゴートハルト・ナイトハルト(Mathis Gothardt Neithardt)というが、17世紀にドイツのヴァザーリと称される画家・著述家のヨアヒム・フォン・サンドラルトが著書『ドイツ・アカデミー』で、グリューネヴァルトと誤記したために、以降そう呼ばれるようになった。

【略歴】
 1455年頃、ヴュルツブルクで生まれる。
 1467年〜75年、E・Sの頭文字で知られる彫金・版刻師の工房に入り、その後、コルマールでマルティン・ションガウアーに弟子入りし、版画や肖像画、祭壇画の技法を学ぶ。
 1475年〜78年にはストラスブルクやゲント、スパイエル、フランクフルトなどに滞在。
 1479年、ストラスブルクに滞在し、フィリップ2世の大法官ハーナウ・リヒテンベルク伯と夫人の肖像画を描く。
 その後、伯爵夫人の伯父でマインツ大司教のディータア・フォン・イーゼンブルクの専属画家となり、別荘のあるアシャッフェンブルクに滞在。
 1490年〜98年、バーゼルに移り住み、ベルクマン・フォン・オルペの印刷工房で木版画デザイナーとなる。この間にアルブレヒト・デューラーを指導し、98年以降も1502年までニュルンベルクでしばしばデューラーの仕事を助けたという。
 1503年、フランクフルトに近いゼーリゲンシュタットに移り住み、「リンデンハルトの祭壇画」(現在、フランクフルトのシュテーデル美術館所蔵)を手がける。
 1503年〜05年、「キリストの陵辱」 (ミュンヒェン・ピナコテーク所蔵)を制作。
 1508年、マインツ大司教ウリエル・フォン・ゲミンゲンの専属画家となり、その後継者となるアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク枢機卿に仕える。
 1512年、コルマールの南、約20キロにあるイーゼンハイム村の修道院に祭壇画を依頼される。
 1515年、代表作となる『イーゼンハイムの祭壇画』を完成させる。
 1519年、シュトゥッパハの聖母子像を描く。
 1520年[以降]、「磔刑図」(カールスルーエ美術館)。
 1525年頃、「聖エラスムスと聖マウリティウス」(ミュンヒェン・ピナコテーク所蔵)。
 1526年初め、新教の農民軍の蜂起を受けてゼーリゲンシュタットを脱出し、フランクフルトで薬用石鹸や絵具を作って暮らす。その後、ハレの友人画家の家に移り住む。
 1528年、ハレにてペストにかかり、8月31日に永眠。

 【参考文献】
 
 『幻想画家論 (1972年)』 瀧口修造(著)

 『イーゼンハイムの祭壇画』はフランス・コルマールのウンターリンデン美術館に所蔵されている。
 (→Musee d'Unterlinden - Colmar) :フランス語のサイトです。

 J.K.ユイスマンスは小説『彼方』の中で、カールスルーエ美術館の『磔刑図』を言葉で生々しく細密に描写し、こう述べている。
「グリューネワルトはもっとも狂暴な理想家である。どんな画家も彼ほど荘厳に高遠の趣を賞揚したものはなく、また彼ほど決然と霊魂の峰を跳びこえて、無限な天の軌道に駆け入ったものもなかった。実に彼は両極端を跋渉して、はなはだしい不浄のなかから、清純な慈愛の薄荷と、辛辣な涙の原質とを引き出した。この一幅の絵は、あるいは不可見のものや、触知しうるものを描き、あるいは肉体の悲しむべき不潔を表わし、霊魂のかぎりない苦悩を昇華させるなど、芸術の深奥と枢要とをきわめつくした傑作である。」

 瀧口修造は、『幻想画家論 (1972年)で次のように綴っている。
「……今日ではボッシュとグリューネヴァルトの名を、北方の表現主義芸術の最初の系列にあげるのが通例となっている。ハーバート・リードなども、近代表現主義芸術の源泉をゴッホやムンクに見出すことができるが、本質的にはこの運動は北ヨーロッパに地理的なルートをもつものであり、過去にさかのぼれば、グリューネヴァルトやボッシュを典型的名な画家としてあげることができるといっている(『近代芸術の哲学』1952年)。(中略)
 ……それはたしかに美の慣習から離れた異様な美であり、ほとんど超自然的な色彩の駆使、極度の写実の反面に、たとえば手の表現における異様なデフォルマシヨン、「描き違い」といわれるほどのアナトミーの無視などが、はげしい人間的感情の表現にたくみに利用されている。」


 数年前にコルマールに寄ってウンターリンデン美術館を訪ねてみた。ユイスマンスの『彼方』――これはイーゼンハイムの祭壇画ではなく『磔刑図』についてではあるが――で凄絶の極みのように描写していたので期待し過ぎたせいもあるのか、意外に凄みを感じられなかった。腐蝕し始めた肉体の随所に茨の棘が刺さり生々しい血糊を垂らすキリストの姿は確かに痛々しいが、荘厳なる悲愴美というよりただの中年男の無残な死骸という感じで、周囲に配された人物たちも厳粛さに欠ける表情をしていた。さらに、他のパネルに描かれる人物や妖怪たちは、グリューネヴァルトの師匠にあたるションガウアーの妖怪画に似て、どれもなんとなく軽みがありユーモラスである。例えば右の光輪を背にした昇天するキリストなどは、あたかも現代のニューエイジアートや新興宗教のパンフレットにでも出てきそうな劇画風のイメージだ。もしかすると、だからこそユイスマンスは有名な『イーゼンハイムの祭壇画』のほうではなく『磔刑図』のほうを採用したのかもしれない。(と、思ってあらためてユイスマンスの自伝を読んだところ、『彼方』執筆時には『磔刑図』しか観ていなかったようだ)



<<HOME 
ご意見・ご感想は travis7jp@yahoo.co.jp