レオノール・フィニ (Leonor Fini)

1907年 ブエノスアイレス(アルゼンチン)生 ―1996年 パリ(仏)没 

『生成する者たち』
(1957/58)

 【略歴】
 1907年、ブエノスアイレスにて生まれる。父親はスペイン・イタリアの血を引く地主で、母親はドイツ、スロヴェニア、イタリアの血を引くトリエステ育ちの女性だった。母親は暴力的な夫に耐えかね、幼い娘を連れてトリエステの実家に連れ帰る。
 母方のブラウン家はオーストリア出身のブルジョワ商人で、先進的な知識人と交流があった。邸宅の居間にはシュトゥックの版画『官能』(Sinnlichkeit)が飾ってあったという。
 フィニは幼い頃から絵の才能を発揮する。イタリアのマニエリストたち――コズメ・トゥーラやポントルモなど――のほか、クリムト、ビアズリー、フリードリッヒなどの作品に親しみ、思春期に至っては死体に興味を抱いてデッサンのために死体置き場に通い、骸骨に魅せられて解剖書に夢中になる。15歳頃より油彩を始める。
 1924年、友人のアルトゥーロ・ナタンとトリエステのグループ展に参加。初めて肖像画の注文を受ける。
 その後、家を出てミラノに滞在。1928年末から29年にかけてミラノ画廊で個展を開く。ノヴェチェント派のアキッレ・フーニ(1890-1972)の弟子となる。
 1930年、ヴェネツィア・ビエンナーレに1品のみ出品。32年の同展にも出品。
 1932年or33年、パリに移り住む。この頃、ブルトンマックス・エルンスト、マン・レイ、サルヴァドール・ダリなどのシュルレアリスム関係者のほか、ピカソやデ・キリコ、ピエール・ド・マンディアルグらとの交流があった。
 1934年、キャトル・シュマン画廊でエルンストらシュルレアリストたちと「オートマティスム」によるデッサンやアンフォルメル絵画を展示。
 1936年、ロンドンにおける『シュルレアリスム国際展』に出品。11月にはニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で個展を開き、デ・キリコが紹介文を寄せている。
 同年末から翌37年にかけてのニューヨーク近代美術館における「幻想芸術(Fantastic art)、シュルレアリスム展」に出品。同じくNYのジュリアン・レヴィ画廊で初の個展。なお、36年〜37年にかけてエルンストと交際。また、マンディアルグとも断続的に付き合っていた。
 1939年、アルカションのダリ・ガラ夫妻の近所にマンディアルグと同棲。サン・マルタン・ダルディッシュでレオノール・カリントンと親交を結ぶ。その後、ニースを経て1940年にモナコへ移り住む。
 1942年、在モナコのイタリア大使館に勤務中のスタニスラオ・レプリと知り合う。この頃よりスフィンクスを描くようになる。

サド『ジュリエット』のための挿画
(1944)

 1943年、マンディアルグが自費出版した第1短編集『汚れた歳月』の表紙及び挿絵を手がける。
 1943年〜44年の半年間をレプリと共にジーリオ島で過ごす。
 ムッソリーニ政権の倒壊に伴いローマに渡り、デ・キリコの弟アルベルト・サヴィニオ(1891-1952)やファブリツィオ・クレリチ、マリオ・プラーツ、アルベルト・モラヴィアらと交流。マルキ・ド・サド『ジュリエット』の挿絵を描く。
 1944年〜45年頃よりローマのオペラ座のバレエ衣装や舞台デザインを手がける。その後、イタリアやフランスで数多くの劇場の舞台装置・衣装デザインを担当する。
 1947年、パリに戻る。レプリが当時、在ブリュッセルのイタリア総領事だったため、しばしばベルギーを訪問し、マグリットらと交流する。
 1949年、マンディアルグ、『レオノール・フィニの仮面』を刊行。
 1950年、マンディアルグやコクトー、オーディベルティらの文章に挿絵を添えた銅版画シリーズ『家族の肖像』が出版される。マンディアルグがボナ・デ・ピシスと結婚。ジュネの詩集『ガレー船』の挿絵を描く。
 1951年、元将校の国連職員で編集も手がけるコンスタンティン・ジェレンスキー(1922-1987)と、共通の友人クレリチを通じて知り合う。

『いやいやながら』
(1985)

 1953年、ポーの『幻想物語』の挿絵を描く。
 1957年、以前より気に入っていたコルシカ島ノンツァのフランシスコ修道院を購入して別荘にする。以降、フィニは毎年のように夏に数ヶ月この別荘を利用し、マンディアルグ=ボナ夫妻やエルンスト=ドロテア・タニング夫妻、イヴ・クライン、アンディ・ウォーホールらの親しい芸術家が集まるサロンとなる。無名時代のフックスもここの常連客だった。1967年にはジャン・エミール・ジャンヌソンがこの別荘を主な舞台にして映画『レオノール・フィニのための肖像・詩』を撮影している。
 1962年、ポーリーヌ・レアージュ『O嬢の物語』の挿絵を描く。
 1964年、ボードレール『悪の華』 の挿絵を描く。
 1968年、友人の映画監督ジョン・ヒューストンの『愛と死の果てるまで』(69年公開)で衣装デザインを手がける。
       クレリチを通じてイタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニ(1920-1993)と知り合う。
 1972年、日本の東京・大阪・京都で回顧展が開かれる。

『不快な座り心地』
(1985)

 1973年、小説『ヴィブリッサの物語』が出版される。
 1977年、ロワール河畔ブロワに別荘を買う。
 1978年、小説『夢先案内猫』(オネイロポンプ)が出版される。
 1980年、最愛の友人であったレプリが他界。
       この頃より異界への旅をテーマとした暗い作風の作品が多くなる。
 1983年、イタリアのフェラーラで3ヶ月にわたる大規模な回顧展が開かれる。
 1985年、日本の横浜・大阪・北九州・札幌で回顧展。翌86年にはパリで回顧展。
 1987年、もうひとりの最愛の友人、ジェレンスキーが病死。
 1990年、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。
 1996年1月18日、肺炎によりパリの病院にて逝去。享年88歳。
 同年、ジョスリン・ゴダールによる評伝『レオノール・フィニあるいはある作品の変容』 が出版される。

 【参考文献】

 『レオノール・フィニ―境界を侵犯する新しい種』 尾形希望和子(著) 東信堂 (2006/09)
 ※本書はレオノール・フィニの生涯を詳細に記すと共に、フィニの作品世界をさまざまな側面から解説し、フィニの画集、自著、挿画本やフィニについて書かれた評論・研究書・雑誌記事などを数多く紹介している。

  『幻想の彼方へ』 澁澤龍彦(著)

 【フィニに関する図書】
 『夢先案内猫』 レオノール・フィニ (著), 北嶋 廣敏 (翻訳)  工作舎 (1980/01)
 "Fini, Leonor (Reveries)″Esther Sesdon (著) New Line Books (2005/1/5)



<<HOME 
ご意見・ご感想は travis7jp@yahoo.co.jp