1860年オステンド(ベルギー) ― 1949年11月19日
【略歴】 1860年、ベルギーのオステンドで、イギリス人の父とベルギー人の母の間に生まれる。北海に面したオステンドは外国商館が立ち並ぶ国際港であるとともに夏は海水浴で賑わうリゾート地だった。両親は古物や民芸品を扱う店を経営しており、店内には珍しい貝殻や仮面、極東の美術品、人魚の剥製と称したものなどがひしめいていた。10歳ころから絵画に熱中し、土地の画家にデッサンを習う。 1877年〜79年の間、ブリュッセルの美術学校に通学。ドガの作風に似た暗鬱な色調の静物画や室内画を多く描く。また、ゴッホの作品と相通じるものがあると指摘する評論家もいる。 1881年、「クリサリード」(蛹)展に「色彩画家」を出品。ブリュッセルのサロンに「ロシア音楽」を出品。 1882年、「エソール」(飛躍)団体展に参加、パリのサロンで「支那趣味」「ブルジョワの客間」が入選し、一定の評価を得る。1883年制作の「破廉恥な仮面で」で初めて仮面が登場。以来、仮面と道化と骸骨(死)を並置した寓意的な作品を描くようになる。 1883年、参加していた団体「エソール」が分裂し、進歩的な団体「XX」が創設される。 オステンドの実家には口やかましい母親や傲慢な伯母、感情の起伏が激しい姉がいて常に不和が絶えなかったが、アンソールは生家にとどまって絵画制作を続ける。86年頃にロンドンに滞在してターナーの作品に強い印象を受ける。アンソールは旅行が嫌いで、その他は滅多に旅行せず、ほとんどオステンドに引きこもっていた。 1887年、父親がアルコール中毒で他界。 1889年、力作の「キリストのブリュッセル入市」が「XX」に拒否される。1892年頃から絵画の衰微が始まる。 1898年、 パリの文学雑誌「プリュム」がアンソールを特集するとともに個展が開かれ、画壇の情勢が一変する。ところが1900年以降は仕事量が減り、しかも目に見えて彼の芸術性が衰弱する。 1907年、「恋の音階」と題するバレエ・パントマイムの台本及び衣装・装置のデザインを手がける。 第1次大戦中、ドイツの画家たちが占領下のベルギーでアンソールから多大な影響を受けたことで表現主義がより発展したという説がある。アンソールは平和ポスターを描いたために投獄されたが、エミール・ノルデに救われたという逸話が残っている。 1929年、男爵位を授けられる。1933年、フランスのレジオン・ドヌール勲章を受勲。 1949年11月19日に他界。 (*1) 『絞殺死体を奪い合う骸骨たち』(1891) 油彩 59x74cm アントワープ王立美術館所蔵 【参考文献】 『ジェームズ・アンソール』 ウルリケ ベックス=マローニー(著) タッシェンジャパン (2002/05) 『ジェームズ・アンソール―仮面の幻視者 (1983年)』 末永 照和 (著) 『幻想画家論 (1972年)』 瀧口修造(著) なお、オステンドには「ジェームズ・アンソールの家」(The James Ensor House)があり、アトリエや作品を見ることができます。私は11月にオステンドへ行きましたが、オフシーズンの冬場は開館している日が少なく中に入れませんでした。旅行するなら夏の海水浴シーズンが良いでしょう。開館日はHPで確認してください。
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