ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)

1888年 ヴォロス(ギリシア)生 ― 1978年 ローマ(イタリア)没 

『ヘクトルとアンドロマケ』
(1917)
【略歴】
1888年、ギリシアのテッサリアのヴォロスに生まれる。両親ともにイタリア人で、父親は鉄道技師だった。
1891年、弟のアンドレア(後に画家アルベルト・サヴィニオとなる)が生まれる。
1900年、アテネの工芸学校に入学、美術科に2年通う。
1905年、父親が他界。翌06年に母親・弟とともにイタリアに戻り、ベネツィアやミラノ、フィレンツェを転々とする。
1907年、ミュンヒェンの王立美術学校に進学。ショーペンハウエルやヴァイニンガー、ニーチェらの思想に耽溺すると共に、ベックリンやクリンガーに心酔し、分離派の影響を受ける。
1909年、母親と弟が暮らすミラノに移り住み、ベックリンに影響された作品『ラピュタ族とケンタウロス族の戦い』を描く。翌10年、 母親と共にフィレンツェに引っ越す。弟はパリへ。
1911年、弟の暮らすパリに移り住む。サロン・ドートンヌやアンデパンダン展に出品。エコール・ド・パリの人びとと交流する。アポリネールが彼の『イタリアの広場』『詩人の悦楽』を高く評価する。
1915年、第1次世界大戦でイタリア軍に従軍。フェラーラの陸軍病院でカルロ・カッラと知り合う。当地で1916年から17年にかけて、故意に透視画法を狂わせた無人の空間を描き、「形而上絵画」と名づける独自の概念を確立する。
1918〜19年、ローマに移り住み、ティツィアーノら後期ルネサンス絵画を研究する。美術雑誌『ラ・ロンダ』や『ヴァローリ・プラスティチ』に寄稿する。その後もローマとフィレンツェを往復してルネサンスの画家たちの技法を研究。
1924年、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。ヴェネツィア・ビエンナーレに出品する。
1925年、パリにもどるがシュルレアリスト・グループに新しい展開を批判され、翌26年、彼らと決別する。
1929年、ディアギレフ主宰ロシアバレエ団のために舞台美術と衣装をデザインする。その後、舞台美術家として活躍する。
 その後、ミラノ→フィレンツェ→ニューヨークと移り住み、1938年イタリアに帰国、ミラノ、フィレンツェを経て1944年、ローマに落ち着く。
1978年11月20日、ローマにて逝去 。

【キリコに関する図書】
 『  』 集英社 (1986/05)


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